人生二度目のモーニングセットを、感慨に耽りながら食べている僕の目の前で、シャインさんはだんだんと自分の身の上話を始めていった。
波乱万丈な、ドラマになりそうな境遇。過酷とも言える状況の中で、よくもまあ、こんなに天真爛漫な雰囲気で生きていけるものだと感心する一方、僕が気になりだしたのは今現在だった。
テーブル席が六つあるこの区画には、僕たち以外に二、三組の客がいる。
みなサラリーマン風の中年男性で、静かに新聞を読んだり、小声で会話したりしている。
シャインさんは良く通る綺麗な楽器みたいな声で、しかもけっこうな早口で、ずっとしゃべり通しだ。
隣席で新聞を読んでいる男性の表情を、僕はときどき観察しなければならなかった。
《シャインさん、もう少し小声で話したほうがいいんじゃないかな?》
内容もプライベートなことだし、僕なら聞き耳をたてて、新聞を読んでいるどころじゃないなと思う。
ちょっとそわそわしていると、モーニングセットを撮影するために取り出して、そのままテーブルに置いていた携帯電話が、照明の具合で光ったように見えてしまった。
「あっ、そういえば、サリーちゃんからの返事、確認してなかったわ!」
僕の視線に気づいたシャインさんが、自分の携帯電話を手に取った。
「やだ、いっけなーい。サリーちゃんからの返事、一時間も放ってあったわ。『いいよ~』だって」
シャインさんが身の上話を始める前、電話をしてもいいかという確認メールを送信してあったのだ。
その返事を確かめずに、一時間も会話をしていたことになる。会話と言うか、僕はほとんどうなずいているだけだったのだが。
サリーちゃんにコールした電話をシャインさんから渡されて代わると、アニメのような可愛らしい声が聞こえてきた。
『もしもし~。リスでリスよ。こんにちはカツオチャン、お元気でリスか~?』
「あれ? リスなの!?」
『そうでリスよ。くふっ。リスでリス』
かつて「リスのサリー」として、ブログでリス語を流行らせていたサリーちゃんは、今は別のキャラクターでブログを立ち上げているので、ここでリス復活とは思わなかった。
だが普通に会話するうちに、次第にサリーちゃんは地声になっていき、語尾にリスもつかなくなってきた。
「意外と声低いな。なんかトロねえの声に似てる」
サリーちゃんの地声は僕としては好きな周波帯だったが、ちょっとからかうように言ってみた。
ドラえもん声で仲間内に有名なトロねえに似ている、と言われたサリーちゃんは、さすがに一瞬きょとんとしたように、『えっ? そお?』と返し、数秒絶句した。
サリーちゃんに電話したことで一区切りがつき、僕たちは喫茶店を出た。
会計はシャインさんが済ませてくれたが、僕は勝手におごってもらうことに決めた。
割り勘は男女のデートではしない主義にしている。おごってもらうか、おごるかのどちらかだ。
歩き始めると、東京の街は朝よりも寒さが増していた。
まさか東京で着るはずないと思っていた仕事着のジャンパーが脱げないどころか、着ていてもちょっと震えてくるくらいに寒い。
こんなに寒い中で歩いて、シャインさんは平気なのかなと考えた。
まさか機嫌を悪くしたりしないだろうか…。
「この近くに、貝塚公園ってのがあるんだけど、カツオさん行ってみる? べつにそんなには面白い場所ではないんだけど」
なんとなく目的もなしに歩き出した感じのシャインさんは、寒さは全く気にしていない様子で誘ってきた。
「寒いね。信州より寒いくらいだよ」
「うん、今日は本当に寒いわね」
ダウンのコートを着たシャインさんは、ヒールの音も軽やかに、僕の隣を笑顔で歩いていく。
寒いというそれだけで、あんなにも機嫌を悪くした卒ダンパートナーの彼女とは、まるで違っていた。
だけどいまさら気づくまでもなく、彼女は最初から少しも僕に好意を持っていなかったのだろう。
そして若さゆえの寛容力のなさで、自分の主張を正直に僕にぶつけてきたのだ。
当時の僕にはそれに対処する能力がなく、そして同じく寛容の心もなく、対立しただけだった。
だがそんな彼女が僕に与えてくれた、二つの大きなものがある。
一つは、彼女に好意を抱くことにより、ほかの女性になどどう思われたっていいやという、一種の開き直りの気持ちができて、その当時頻繁に行われていた中隊会、小隊会と称する合コン(これらは出席が義務だった)などで、同席の女の子たちと気軽に話せるようになったこと。
これは超シャイでおくてだった僕にとって、180度の方向転換とも言える性格の変貌だった。
僕は誰にでも冗談を言って笑わせ、一見ナンパなモテ男を演じられた。
《なんだ、女のコと親しくなるなんて、全然簡単じゃないか!》
唯一気軽にしゃべれないのが、卒ダンのためにほんの数度会っただけの彼女だった…。
そしてもう一つは、キーボードのカナ打ちを勧めてくれたこと。
卒業研究の発表論文制作のため、僕は慣れないコンピューターのキーボード操作に苦労していた。
最初に使ったときなど、たったの三行の文章を打つだけに、実に二時間を費やしたのだ。
それを打ち明けると、会社でパソコンを使いこなしているという彼女が、
「そんなの、カナ打ちのほうが絶対に早いよ」と言ってきた。
アルファベットの26文字の位置を憶えるのにも苦労している自分が、その倍のカナの位置を憶えるなんて、かえって時間が掛かるんじゃないかと応えた僕に、彼女は笑って返した。
「そんなのすぐに憶えれるよ。それに一文字打つのに二つ三つ必要なローマ字打ちの、半分の時間で文字が打てるんだから」
彼女の言葉を半信半疑で実践した僕は、すぐにカナ打ちに慣れることができた。
そしてこのことは現在、小説を書く僕にとって、ものすごい財産となっている。
美しい日本語を書いていくとき、いちいちいったん頭の中で言葉をアルファベット変換していたら、それは無機質な機械的言語みたいになってしまう気がするのである。
もちろんそんなのは気のせいと言えばそれまでだし、自分であるとき気がついて自発的にカナ打ちに変えていたかもしれない。
僕は彼女に悪いことをしたと思う負い目から、彼女を良い人間にしておきたい気持ちを持っているのかもしれなかった。